このごろ思うことなど

ふと思ったこと、思いついたこと、作ってみたものなどについて書いています。

REGZAでlinuxのハードディスクに録画する

我が家のテレビREGZAのZ2000は、LAN接続のハードディスクにしか録画できない仕様で、NASを1台LANにつないで録画をしていました。いっぱいになったのでハードディスクを増設したのですが、NASは高いのでUSBのハードディスクを買いました。PCにUSBで接続したハードディスクには録画できていたので。ところが、やってみるとどうしてもうまく行きません。調べてみると、WindowsXPでは録画できたのに、Windows7ではできなくなったとのこと。結局、苦労してハードディスクにlinuxをインストールし、Sambaを設定してやっと録画ができるようになりました。設定はこちらのサイトのお世話になりました。
http://noajitte.seesaa.net/article/245009972.html

我が家の場合、linuxマシンは24時間稼働というわけではないので、しばらく見ない番組をNASからlinuxに移動して普段の録画はNASを利用し、見たいときにlinuxを立ち上げるという運用にしました。linuxマシンで録画したファイルの移動は可能なのですが、ファイル名を見ても番組がわからないのが難点です。そこで、ファイル名を確認して移動するスクリプトを作りました。これが必要な人はほとんどいないとは思いますが、せっかく作ったので掲載します。
regza.py 直

python3のスクリプトです、使い方は、録画してあるディレクトリをdir1、移動先のディレクトリをdir2として、

python3 regza.py dir1

で起動すると、番組タイトルのリストが番号付きで表示されます。番号を指定して、録画したファイルを移動できます。例えば、3,10,12の番号の番組を移動するなら

dir1>> mv 3 10 12 dir2

こんなコマンドを打てばOKです。その他にもいくつかコマンドが実装されていますので、

dir1>> help

でチェックしてください。

番組名に含まれる「二ヶ国語放送マーク」や、「最終回マーク」などの「ARIB外字」と呼ばれる文字は、フォントが無くて化けてしまいますが、実用上はあまり問題ありませんのでご了承ください。

モノを減らすということ

 以前『人生がときめく片づけの魔法』という本を読んだ。ベストセラーになり、著者のこんまりさんは、米国「TIME」誌で世界で最も影響力のある100人に選ばれるなど、今や時の人だ。私も影響を受けて、衣類や文庫本など、ときめかないモノたちを手放したのだが、それだけで終わってしまった。
 なのに性懲りもなく、本屋で見かけた『ぼくたちに、もうモノは必要ない』という本をまた買ってきた。「ミニマリスト」を自称する著者が、極限までモノの少ない生活を推奨する本だ。私は、就職してから2年間、独身寮で六畳一間の二人部屋に住んでいた。それは正にミニマリストの生活だった。収納と言っても半間の押入れの下半分だけ。テレビも持っていなかった。それでもちゃんと生活はできていたし、この本の主張するように、時間的な豊かさなどがあることはわかる。
 あれからおよそ20年を経て、狭いながらも一戸建ての家に家族と住んでいる今、ミニマリストになろうともなれるとも思わないけれど、モノが多すぎることは気になっていて何とかしたいと思っていた。モノが家を占拠して、狭いところで生活するのは残念だったが、なかなかモノを減らすことができなかった。『モノは必要ない』が説く、本や昔買った高価なモノが捨てられない理由には、ちょっと心に刺さるところがあったので、また挑戦してみることにした。
 今日は、本と靴をブックオフに持っていった。こんなこと勉強したんだということを確認するためだけの置物になっていた大学時代の教科書と、就職した年に買ってどうしても足に合わずにあきらめた4万円のリーガルの革靴だ。大して履いていないとは言え、20年前の靴に値がつくとは考えもしなかったので、捨てようとしたら、ツレアイがブックオフに持っていけと言ったのだ。持って行ってよかった。1,000円で引き取ってくれた。ゴミにならずにリユースされるのも嬉しい。
 玄関まわりのモノを集中的に減らしてみたら、目に見えてスッキリして、少し弾みがついてきた。これからも、コツコツと継続的にモノを減らして行こうと思う。リビングやキッチンはまだ手付かずで、道は険しいけれど。

幸せな味覚の持ち主とは

同じものを食べても「美味しい」という人もいれば「不味い」という人もいます。味覚は人それぞれで違っているということは経験的に分かりますが、ではどんな味覚の持ち主が一番幸せなのか、という疑問を持っていました。好き嫌いの問題もあるので、味覚を類型化すること自体がかなり難しい問題だとは思います。非常に単純化して、美味しさを表す一次元の尺度(「不味い」⇔「美味い」)で味覚を表現します。さらに、とても乱暴な話ですが、仮に「美味しさの絶対尺度」のようなものがあると仮定します。これは、神様の決めた尺度と考えてもいいし、全世界の人の評価の平均と考えてもいいと思います。とにかく、あらゆる料理、食べものは、この尺度の下に美味しさの値が付与され、一列に並べられる、というものです。そうすると、個人の味覚は、「美味しさの絶対尺度」から「個人が感じる美味しさの主観的尺度」への関数で表現されます。「絶対尺度」をx、「主観的尺度」をyとすると、おおまかに以下の3つのパターンがあるように思います。

Aは、何を食べても美味しい、という人達です。C は、本当に美味しいもの以外は不味い、というグルメな人達です。間のBは、美味いものは美味い、不味いものは不味い、という人達ということです。これだけ見ると、何でも美味しく食べられるAの人が幸せそうに思えます。でも、関数の傾向はこのとおりだとしても、これらのグラフを重ねてみると、以下のようになりそうです。

つまり、Aの人達は、何を食べてもそこそこ美味しいけれど、本当の美味しさが分からず、違いが感じられません。逆に、グルメなCの人達は、本当に美味しいものはとても美味しく感じられ、かつ微妙な美味しさの違いがよく分かります。こう考えると、食べているものの「美味しさの絶対尺度」がどの程度かによっても、幸せな味覚のパターンは変わってくることになります。

夕食の話題でこの話をしていて、娘と私の結論は、やっぱりBがいいね、ということでした。

ブラックコーヒー党 vs スイートコーヒー党

随分昔の事だが、豆から淹れたコーヒーに砂糖を入れていたら、「もったいない」と言われたことがある。つまり、「せっかくの美味しいコーヒーに砂糖なんか入れたら台無しじゃないか、もったいない」ということだと思う。嗜好品なのだし、好みはそれぞれなのだから、砂糖を入れようが入れまいが好きにすればいいだけの話なのに、「ブラックコーヒー党」の人達は、なぜか我々「スイートコーヒー党」に対して、蔑みにも似た感情を抱いているように感じることがある。「味の分からないやつらめ」と。

子供の頃、麦茶には砂糖が入っているのが普通だった。グレープフルーツにも砂糖をかけて食べていた。今同じことをすれば、「邪道」だと言われかねない。「昔は甘くて美味しいって言ったもんだけど、今は甘過ぎなくて美味しいって言うんだ」と近所のおばさんが言っていたのは、もう20年以上前の話だ。いつからか、「素材の味をそのまま味わうのが良いことで、砂糖をかけるのは邪道」というような意識が広がってきたように思う。

このような背景の下、日本では「ブラックコーヒー党」が与党になったものと思われる。これに対して、野党たる「スイートコーヒー党」は、百倍誇張して表現すれば、「砂糖を入れた方が美味いのに、通のフリしてやせ我慢して不味いまま飲んでるやつらめ」と反発しているように見える。

この話の結論は、健康のために砂糖を控えている方は別にして、自分が本当に美味しいと感じる飲み方で飲めばいいじゃないか、仲良くやろう、ということだ。

バルコニーから見える風景

バルコニーに出ると視界が広がる。頂上までもう少しという丘の中腹に我が家は建っていて、目の前の家の土地は一段低い。ほぼ180度にわたり視界をさえぎるものは無い。前の家の向うを道路が横切り、その先の斜面には住宅地が続いている。谷底には、国道、川、線路が並行して走り、その向うはまた丘だ。丘の上には県営の大きな公園があり、頂上には照明設備の着いた野球場が見える。

晴れて空気が澄んでいれば、右手45度に富士山が見える。宝永火口が丁度左肩になる角度だ。裾野の右側に少し丹沢の山がかぶっているのは許せるとして、真っ正面にマンションが重なっているのはいただけない。さりとて、爆破する訳にもいかない。夏場は、晴れていても空気の透明度が低く、見えないことが多い。冬は良く見える。日没のときは、シルエットになって浮かび上がる。

正面の坂道は、その道沿いに建つ石碑によると、かつては交通の要所だったのだとか。そこそこ交通量はあるが、すれ違うのがやっとの道幅でもあり、ひっきりなしという程ではない。音もそれほど気にならない。谷底を走る電車も、耳を澄ませばそれらしい音が聞こえる程度だ。意外にも聞こえてくるのが、高速道路の騒音だ。この家の建つ丘の、ちょっとずれたところをトンネルが貫いていて、正面の丘の野球場の右側につながっている。車が流れているときは、エンジン音なのか風切り音なのか、低い音が聞こえてくる。たまにトンネルで事故など起きると、ぎっしり詰まった車のライトが奇麗だ。

くずかごを編む

部屋の模様替えをしたら自分の定位置の近くにゴミ箱が無くなって不便になったので、作ってみました。ちょうど、ツレアイが丈夫な紙のテープを編んで入れ物を作っていたので、その材料をもらって、ゴミ箱ならぬくずかごを編むことにしました。どういう編み方にしようか考えて、農家で収穫に使う籠のような六角形の編み方にすることを思いつきました。材料の切れ端であれこれ試したところ、なんとなく編み方が分かり、制作にとりかかりました。底から編み始め、側面を立ち上げるところがよく分かりませんでしたが、なんとなくやっていたらそれらしくなりました。一番上は、折り返してボンドで止め、内側と外側に飾り用に一周ずつ巻いて完成です。思ったよりそれらしく出来ました。目が荒いので、中に袋を入れて使っています。

耳鳴りの治療に補聴器?

3年前に帯状疱疹を患い、幸い完治したのですが、左の耳に耳鳴りが残りました。「キーン」という高い音です。自分で色々な周波数の音を出して聞き比べてみたところ、17kHzぐらいの音が近いと感じました。人間が聞こえる音の上限が20kHz程度といわれていますので、かなり高い音です。子供のころにブラウン管テレビから聞こえた「キーン」という音の音色をちょっと低くして音量を上げたような感じです。音楽を聴いたり、大きな音を聞いているときには耳鳴りは聞こえなくなりますが、そうでないときは基本的にいつも鳴っています。耳鼻科で診てもらったこともありますが、「補聴器つけて治療する方法もあるけど、それほどじゃないでしょ」と言われ、まあ我慢できないほどではないからいいか、となってそれっきり放置していました。

3月4日に、NHKの「ためしてガッテン」で「ついに!耳鳴りが治る」という番組が放送されました。最近画期的な治療法が見つかって効果をあげているというので興味津々で見ていましたが、その治療法が「補聴器をつけること」だというので拍子抜けでした。

その後、3月16日に日本音響学会の春季研究発表会で、「知られざる耳鳴の実態とメカニズム −その2 耳鳴における最近の科学と治療−」というスペシャルセッションが開催されました(講演要旨はこちらの9ページ)。これを聞きに行って分かったことは、「補聴器を使った耳鳴りの治療」には2種類あるということでした。私がかかった耳鼻科医が言及していた「旧手法」とためしてガッテンの「新手法」は、補聴器を使うといっても異なる手法ということです。「旧手法」は、耳鳴り対策のためにノイズのような音を出す機能を備えた補聴器を使うことで、その音にまぎれて耳鳴りが気にならなくする、というようなものだと理解しました。研究発表では、この「旧手法」では、多少気にならなくなる程度の効果はあるものの、耳鳴りそのものが軽減したり消えたりすることはほとんど無いとのことでした。一方「新手法」では、耳鳴りの音量が低減されたり消えたりする効果が、使い始めてから1ヶ月程度で得られるということでした。

では、この「新手法」とは何かというと、要するに「普通の補聴器を補聴器として普通に使う」、ということでした。耳鳴りの症状がある人は、大抵の場合難聴の傾向があるため、聞こえにくくなっている周波数を増幅して音量を上げるように補聴器をフィッティングすると言うのです。でもこれって、難聴の人に普通に補聴器をフィッティングするのと何も変わりません。

どうも腑に落ちません。発表によると、難聴の人の35%は耳鳴りの症状があり、耳鳴りのある人の90%は難聴なのだそうです。つまり、難聴かつ耳鳴り、という人はとても多いはずということです。そうであれば、これまでにも、難聴の人が補聴器をつけたら耳鳴りが良くなった、という事例が沢山あるはずです。にもかかわらず、最近発見された治療法として紹介されているのはなぜなのでしょうか?発表者曰く、「補聴器をつけるにあたって医者が患者に、耳鳴りの仕組みや補聴器の効果を説明するカウンセリングが重要で、ただ補聴器をつければ良いというものではない」とのことなのですが、本当にそれだけで違うものなのでしょうか。

さて、補聴器をためしてみるべきでしょうか?