このごろ思うことなど

ふと思ったこと、思いついたこと、作ってみたものなどについて書いています。

喫煙はマナーの問題か?

 昨日車を運転していたら、前を走る車の運転席から、「ポイッ」と火のついたタバコが投げ捨てられました。「タバコなんて禁止してしまえ!」と、その瞬間私は思います。でも、そんなことを言おうものなら、喫煙者は言うのです。「タバコが悪いわけではありません。たまたまその人のマナーが悪いだけです。」一見、正論に聞こえます。でも、本当でしょうか?

 「◯◯が悪いのではありません。◯◯を不適切に使う人が悪いのです。」という主張について考えてみましょう。例えば「銃」ならどうでしょうか。「銃が悪いのではありません。銃を不適切に使う人が悪いのです。」という主張はアメリカなら正論で通るでしょう。でも日本ではそうではありません。犯罪に利用する「マナーの悪い人」がゼロにならないのだから、禁止すべきというのが日本では正論でしょう。では、「包丁」なら?包丁を使った殺人事件が起きたからといって、「包丁は禁止すべきだ」などと言ったら、「包丁が悪いのではありません。包丁を不適切に使う人が悪いのです。」とたしなめられてしまうでしょう。言うまでもなく包丁は家庭の必需品ですから、禁止した場合のデメリットが大きすぎます。

 さて、タバコは銃と包丁の間のどのあたりに位置するのでしょうか。私のような非喫煙者嫌煙者にとっては、タバコの利益は何一つありません。一方で、「マナーの悪い人」はゼロにはなっておらず、歩きタバコの煙で不快な思いをしたり、健康被害を被ったり、吸い殻で街が汚れたり、火事がおきたり、不利益は沢山あります。飲食店内を禁煙にする法案が議論されていますが、その程度の対策で「マナーの悪い人」がゼロになるとは思えません。私にとってはタバコは銃と同じで、禁止すべきものです。もちろん、喫煙者はタバコのメリットを口にするでしょう。そのメリットがあったとしても、喫煙者やその家族にも重大な健康被害が及ぶことも周知の事実です。今や成人の20%を下回る喫煙者のメリットと、喫煙者を含む全国民のデメリットを秤にかけたとき、喫煙は禁止するのが妥当だと私は思うのですが。

 

なぜ「核ミサイル」は「各ミサイル」になったのか?

日本語のアクセントというのは不思議な存在で、国語辞典には書いてありません。東京方言(いわゆる標準語)と関西方言ではアクセントは全然違いますが、どちらも日本語には違いありませんし、どちらでもたいていは通じます。その意味では、辞書に明記してある英語のアクセントとはちょっと違うもののようです。とは言え、テレビのニュースなどではもっぱら東京方言のアクセントでアナウンサーは喋っています。では、正しいアクセントの拠り所は何かというと、NHKが出版しているアクセント辞典が使われているようです。18年ぶりに改定されて、NHK日本語アクセント新辞典として昨年出版されました。そこで改定されたからかどうかは確認していませんが、最近NHKのニュースを聞いていて気になるのが「核ミサイル」のアクセントです。北朝鮮がらみのニュースで多用されるのですが、これが「各ミサイル」に聞こえてしかたがありません。日本語のアクセントは、おおよそひらがなの文字単位(「きゃ」などの拗音や、撥音「ん」、促音「っ」、長音「ー」も一つの単位)での高低で表されます。NHKニュースでの「核ミサイル」はこんな感じです。

   
  くみ   いる

これだと、私には「各ミサイル」に聞こえてしまいます。おそらく以前は、

  くみさ  
  いる

というアクセントで話されていたはずです。これが、アクセント辞典改定の結果だとすると、なぜこんな紛らわしいアクセントにしたのか、理解に苦しみます。

「ゆんたく高江」に行ってきました

第10回 ゆんたく高江」に参加しました。七尾旅人のライブが見たかったので。

 

1年ほど前、沖縄に機動隊が大量に導入されて、座り込みをしている住民を強制的に排除したこと。その機動隊員が住民に「土人」と暴言を吐いたこと。などは記憶に残っていましたが、それが沖縄の高江というところであること、それがオスプレイのヘリパッド建設に対する反対運動であること、などとは記憶の中で結びついていませんでした。このイベント「ゆんたく高江」は、そんな高江の現状を共有し、高江について話そう、というイベントでした、実は。

 

高江の住民の方々の話を聞くと、高江で今も起こっていることがどんなに異様なことかが分かってきます。国民を守るためではなく、米軍のヘリパッドを建設するために、全国から500名の機動隊員(警察官)が集められて高江に投入されたこと。建設現場に続く1本の生活道路を機動隊が封鎖し、何の武器も持たずに座り込んでいた住民の手足を掴んで排除したこと。作られたヘリパッドから飛び立ったオスプレイは、昼間から夜遅くまで高江の上空を飛び回り、爆音と恐怖を住民に与えること。オスプレイの飛行差し止め訴訟では、住民側が測定して提出した爆音の音量データは証拠として採用されず、被告側が提出したデータだけを裁判所が見て、原告敗訴となったこと。

 

これが東京で起きたら、大々的に報道され、国民から避難を浴びて、政府はこれを続けることはできないでしょう。ところが沖縄では、高江ではこれが起き、今も続いています。遠い国の話ではなく、同じ日本の話です。取材だって自由にできます。同じ人間、同じ日本の国民だと思っていれば、こんなことは出来ないはずではないでしょうか。裏を返せば、沖縄の人たちを、同じ人間、同じ日本の国民だと思っていないのではないでしょうか。

 

こんな差別意識を払拭するためにも、何が起きているかを広く知ってもらい、住民の思いに共感してもらうことが必要なのでしょう。政府にも届いて欲しい。

 

『不毛地帯』の2巻を2冊買う

不毛地帯』は山崎豊子の小説で、映画にもなっていて有名です。文庫本の1巻を買って読んでみて面白かったので、続きを買いにブックオフに行きました。そして、2巻を2冊と3巻、4巻を買ってきました。なぜでしょうか。

ブックオフの文庫本コーナーで本を探すと、2〜4巻が揃っていました。これを買えばいいやと思ったのですが、その下の棚に、明らかに厚みの違う2巻を見つけました。最初は意味が分からなかったのですが、ページをめくってみて気が付きました。『不毛地帯』の文庫は2回発行されていて、最初は昭和58年発行の全4巻、次は平成21年発行の全5巻です。私が最初に読んだのはどうやら平成版の1巻で、ブックオフに揃っていたのは昭和版の2〜4巻でした。これでは話がつながらないので、平成版の2巻も購入したという訳です。平成版の3〜5巻は在庫が無かったので仕方ありません。どちらにしても1冊100円なので損はありません。

昭和版はかなり厚みがあるので、再発行にあたって全5巻にして薄くするのは理解できるのですが、背表紙のデザインまで同じだと混乱してしまいます。間違って買ってしまった人がいるのではないでしょうか。間違ったことに気がつけばまだいいですが、内容が抜けていることに気づかずに読んでしまうと残念な感じです。

イタリアンパセリの花

去年植えたイタリアンパセリが枯れずに冬を越したと思ったら、春になってグングン伸びてトウが立ち、花が咲きました。初めて見るイタリアンパセリの花はなかなか美しいです。打ち上げ花火が空中で破裂して四方に飛び散り、飛び散った玉がまた破裂する。それを繰り返したような感じ。綺麗なフラクタル

沢山咲いたので、摘んできてペットボトルに挿して、階段に飾りました。

草むしりで考える

家を建てて14年になる。庭というほどの庭も無いので、外構にはお金をかけず、DIYで作った。玄関前の小さなスペースには、臨時の駐車スペースにもなるように2列に枕木を埋めた。その間に芝生を貼り、真ん中にレンガで丸く囲んだ花壇を作った。ほんの数平方メートルと言えど、芝生の手入れは手がかかる。除草剤を撒くのはいやだったので、やがて雑草が目立つようになり、たまに雑草ごと刈り揃えた。伸び放題よりはまだ見栄えがよい。

やがて、花壇に植えたアイビーが元気に伸び始めた。よほど居心地が良かったのか、レンガを超えて芝生の上にも伸び始めた。そのままにしていたら、溢れだしたアイビーの葉が、今では芝生の半分以上を覆うまでになった。一方、枕木の外側の細い部分の芝生はさらに雑草にヤラれていたので、一部を剥がしてワイヤープランツを植えてみた。これがまた植生が合ったらしく、細い地面を端から埋め尽くし始めた。結局、土地に合った植物の方が手入れの手間も少ないだろうということで、外側の芝生と雑草は全部剥がして、ワイヤープランツを挿し木した。いずれ、内側はアイビー、外側はワイヤープランツで埋め尽くされて安定することを期待しよう。

生い茂ったアイビーの葉の間からヒョロヒョロと伸びるツル系の草をところどころに見つけ、しばしむしった。むしりながら、人間はよく出来ていると改めて思った。アイビーと雑草、色や形がちょっと違うが葉っぱには違いない。人工知能(AI)技術が発達したとは言え、生い茂るアイビーの中から画像認識技術で雑草を見つけるのは容易ではないはず。さらに、雑草だけを摘んで抜き取るのは、ロボットにはまだまだ難しいだろう。このまま技術の進歩が続けば、人間と同じスピードで雑草を発見して抜き取るロボットを作ることはいずれ可能になるだろうが、我が家で購入できる価格で販売されることは無いだろう。結局、草むしりは自分でやるしかないということだ。

「雑草という草はない」と言った人がいるようだが確かにそうだ。アイビーを育てようとしているからそれ以外が「雑草」になっているだけだ。「雑草」と呼ばれる草にとってみれば、こんな理不尽なことはない。「助けてくれ!なんでアイツは良くてオレはダメなんだよ!」という声が聞こえてきそうだ。これが、農作物の畑だったら、「野菜を大きく育てるために仕方がないのだ」とかもっともらしい理由が言える。でもどっちも葉っぱの場合は、「アイツは好きだけどオマエは嫌いだから」という身も蓋もないことになってしまう。でもそうなのだからどうしようも無い。

兵士Aくんの歌

「一人目の彼はどんな人だろう/一人目の戦死者Aくん/彼は僕の友達/あれは僕の弟/彼は私の彼/あれは私の子」。近未来に起こりうる自衛隊の最初の戦死者を歌った七尾旅人の「兵士Aくんの歌」の一節だ。安保法が成立し、南スーダンPKOに参加する自衛隊に「駆けつけ警護」の任務が与えられたという。政府は、国際貢献のために血を流さない国は尊敬されない、と誤解しているのではないだろうか。この70年間、戦争で一人も殺さず、また一人のの犠牲者も出さなかったこの国には、それ故に勝ち得た信用が、尊敬があったはずだ。それをかなぐり捨てて、テロの標的にもなる「普通の国」になった方いいなんて思わない。自衛隊の、もしくは自衛隊に殺される最初の犠牲者Aくんについて、想像してみて欲しい。